生徒に勉強を教える教師にも、様々なタイプがいます。知識の詰め込みを重視する先生もいれば、人間性を育むことを大切にする先生もいるでしょう。しかし、一見すると「どちらも良い先生」に見えるアプローチの中に、生徒の成長を止めてしまう落とし穴が潜んでいることもあって……。本記事では、ロバート・キーガン氏著『ロバート・キーガンの成人発達理論――なぜ私たちは現代社会で「生きづらさ」を抱えているのか』(英治出版)より、2つの異なる教育哲学を持つ教師たちの授業風景を分析。表面的な教え方の違いを超え、生徒を成長させられる教師と、そうでない教師の本質的な差を紐解いていきます。
本当に「良い先生」の共通点…ハーバード大学名誉教授が明らかにする、教育現場に潜む「教え方の罠」 (※写真はイメージです/PIXTA)

教え方の違いに優劣はあるか

そのようなビジョンが開花するのは、教室全体、学校全体で本質的な活動が行われるときだ。

 

編集注(参考元はp.89)

そのようなビジョン

生徒のマインドの発達が、異なる教育スタイルを行使する教師どうしでも敬意を払うための成果物である。また、(生徒の)精神の発達を持続させる力を教育現場に自生させることこそが、教育に携わる全教師が忠誠を共有する共通の目標(書籍内では「光源」)である、という理想の状態。

 

教え方が発達の「光源」に「プラグを差し込んでいる」かどうかについての、教師たち――「基本に戻る」考え方と「全人的な」考え方いずれの支持者であれ――の考え方を通して開花するのである。

 

たとえば、中学校の国語の教師がふたりいて、どちらも短編小説を扱う授業を受け持っているケースを考えてみよう。この教師Aと教師Bは、性分も生き方も教育に対する哲学も、まるで違う。

 

教師Aは、朝鮮戦争に従軍した経験を持ち、髪型は今もクルーカットで、「先生に口答えするなど生徒は考えもしなかった」時代を懐かしく思っている。教師Bは、従軍を拒否し、後ろで束ねていた髪を先日切ったばかりで、「子どもがブランドものの衣服より主義・主張に夢中になっていた」時代を懐かしく思っている。

 

教師Aは国語の授業を、何よりもまず知的な読み方と書き方を子どもに教える場だと考えている。彼はその両方を教える手段として短編小説を使う。小説を細かく分析して構造を子どもたちに示し、著者が小説に込めた意味をできるだけ多く理解させようとするのである。

 

教師Bは国語の授業を、何にもまして生徒の価値観形成に真摯に関わる場だと捉えている。読み書きに優れることは大切だと思っているし、生徒にも身につけてほしいと願っているが、一方で、学校のカリキュラムは全体的に認知的な側面を重視しすぎている、国語の授業は価値観や人間関係について教える機会になると考えているのである。そこで、生徒の生き方・考え方に真摯に関わり、たとえ意見が違っても互いに敬意を払う力を生徒に高めてもらう手段として、短編小説を使っている。

 

さて、教師Aと教師Bについて皆さんに尋ねたい。ふたりはよい教師だろうか。どちらかがもう一方より優れているだろうか。ふたりは協力しているか、それとも張り合っているか。互いを尊敬しているか。本物の仕事仲間だと感じ、呼吸を揃えているか、それとも、よく言って互いに我慢し合っている関係だろうか。これらの問いのすべてに答えるには、情報がまだ足りない。

 

一方の教師が「基本に戻る」考え方、もう一方が「全人的な」考え方を支持していることはわかるが、それによってどちらがより優れているかがわかるわけではない。ふたりの教育理念が著しく違うことはわかるが、それによって、目指す方向も違うのかどうかまでわかるわけでもない。そのため、情報をもっと集めよう。

 

どちらの教師も、今日の授業ではオー・ヘンリーの『賢者の贈り物』を扱う。教師Aは朝の授業で、人生の皮肉について7年生(中学1年生)に理解させたいと思っている。自分なりに説明してみるよう求めたところ、ひとりめの生徒は次のように答える。「夫が自分の時計を売って、妻の髪に合う櫛を買ったのに、妻は夫の時計に合う鎖を買うために、自分の髪を売ってしまっていました――これが人生の皮肉です」この答えに対し、教師Aはどんな反応をするだろう。

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